無限抄・珠

2013/08/12 / 紅会 / 新書 100p / 全年齢 / ¥700  cover design - haruna - WG

BASARAワールド。サイト掲載の「夢幻泡影」関連の続きです。更に育ちました。
-「無限抄」と同じフォーマットなので、字が小さめです。すみません。
大谷さんはまだ輿に乗っていなく、呪いパワーも手に入れていません。
-秀吉さま、半兵衛さま、官兵衛、家康(小)がいます。

sample

 半兵衛が大谷のために建てた山里曲輪の数奇屋は、常に薬草の匂いで満ちていた。
 大谷は大抵の薬草を数奇屋の周りで栽培していて、頃合と見計らったものを摘み、数奇屋の内外で干しているからである。
 数奇屋に風が吹き込んで、複数の薬草の匂いを掻き混ぜた。甘いもの、つんと刺激のあるもの、清涼感をもたらすもの――そんな香りが混ざり合い、不思議な落ち着く匂いを作りあげている。
 肺の底まで深く、三成はその匂いを吸い込んだ。どれがどの葉の匂いなのかはわからないが、ひとつだけ区別できる匂いがあった。藺草の匂いだ。
 大谷が薬小屋として使っているこの数奇屋は、一昨日、畳替えをしたばかり。新しい畳の匂いが薬草の匂いに混じっているのだった。
 退屈そうに足を投げ出した三成は、数奇屋の奥へ声をかけた。
「刑部、まだか」
「待ちやれ、三成。すぐよ」
 乳鉢を持った大谷が、三成の前に座る。乳鉢の中を覗きこんだ三成が、色を見て嫌な顔をした。
 緑の液体がぶくぶくと泡立っている。
「熱いのか?」
「湯を注いだばかりよ。冷めるまで待て。足を見せてみやれ、三成」
 大谷は自分の膝を叩いた。投げ出してあった三成の右足が、膝の上に乗る。袴の裾をめくり上げると、脛が赤くすりむけていた。
 青あざもある。
 大谷は呆れた。
「ぬしはいくつになりやった」
「十三だ」
「十三になってまで喧嘩とは、覇王や軍師が嘆くであろ」
「私は悪くないぞ、刑部!」
「此度は何が原因か」
 三成がむっつりと黙り込んだ。
「ぬしのこと、われか徳川を貶められ、喧嘩になったのであろ」
 三成はまだ黙っている。その沈黙が肯定だ。
「――徳川か」
 しばし三成の顔をじっと見つめ、大谷は呟いた。すると三成の唇がさらに引き結ばれたので、正解だとわかった。
 新参者でもない限り、大坂城で大谷の陰口を叩くものは滅多にいない。少なくとも三成の耳に入るところでは。
 入ればその瞬間に三成が飛びかかり、陰口などという卑怯な真似をしたことを、痛みという形で思い知らされるからである。
 大谷にしてみれば、病んだこの身を厭う者の気持ちはよくわかった。なにしろ自分が厭うている。死はむしろ静謐で心惹かれる同胞と言えぬでもないが、うつる病となれば、健やかな者ほど恐れもしよう。
 ゆえに陰口ひとつで目くじらを立てる気もないのだが、三成にとっては許しがたい所業らしい。
 三成の袖もまくりあげ、怪我の有無を確かめるふりをしながら、大谷は自分の手を見た。
 死病と言われ、捨てられ、覇王に拾われて幾年経ったか。
 まだ、生きている。
 死に見込まれ、死を飼いながらも、十八になる今日まで、まだ生きている。思ったよりも死の愛撫はゆるやかだ。
 未来というものに期待を抱かずにはいられぬ程度には、生かされている。
 そのような身にありながら、覇王、軍師に覚えがめでたいとなれば、陰口も言いたくなろう。しかしこのところ陰で耳にするのは、徳川家康に対する疑念ばかりだ。
「徳川が三河に戻り、一年と半になる。それは噂もされようなァ。もう戻るまい、裏切りよ、とな」
「刑部もあいつらと同じように、家康は戻って来ないと思っているのか!?」
「さて、どうであろ」
「刑部! どちらだ!」
 乳鉢に触れ、大谷は薬の熱さを確かめた。ほどよく人肌まで冷めている。
「戻る、戻らぬのいずれかと問われれば、戻らぬであろ」
「刑部ッ!」
「そう睨むな、三成。徳川に戻る気がないとは言っておらぬ」
「家康が戻らないのは甲斐の虎のせいだ」
 三成が、多少は大人びてきた目をきりりと吊り上げた。水底色の瞳がきらきらと輝いて、たいそう目元が清々しい。
 しかし、大谷が薬用の筆を使い、たっぷりと足に薬を塗ったので、すぐにぎゅっと両目は閉ざされてしまった。たかが擦り傷だが、薬は染みる。
 薬を塗った上から、大谷は布地を巻いてやった。まだぎゅっと目を瞑った三成の額をぴんと指ではじく。
 大谷は三成の逆の足も、自分の膝の上に乗せた。
 三成の手足はすんなり伸びて、ずいぶん大人に近づいてきた。ただ、双眸だけは五歳の頃と全く変わらない。よく澄み、真実をよく映す。
 頬のあたりや体型にもまだ子供らしさが残っているが、いずれ背が伸びきる頃には、すっきりと涼やかな容姿に育つかもしれない。
 三成の背は順調に伸びていて、日々、軍師を喜ばせている。十八になった大谷の成長が止まったから、ふたりの身長差はじりじりと、地味にだが縮まっていた。
 大谷はもう一方の足にも同じように、薬を塗りつけた。
「三成、三河の高天神城の一件は知っていよう。甲斐の虎が三河の地より掠め取ったという城よ」
 布地を巻く大谷の手を見つめながら、三成は頷いた。
 豊臣軍の大きな遠征があったので棚上げになっていたのだが、遠征から戻った家康は城を取り戻したいと申し出た。
 秀吉の許可を得て三河に発ったのはいいが、家康はまだ戻っていない。遊んでいるわけでないことは三成もわかっている。高天神城ひとつを巡って、武田と攻防を繰り返しているのだ。
「戦略上、さして重要とは思えない拠点になぜ甲斐の虎が固執するのだろうね」
 半兵衛も首を捻る一件だ。家康が取り戻せばまた武田軍が奪い取りに来るので、終わりが見えずに今に至っている。
「刑部はどう思っている?」
「三河は一度、豊臣に負け、臣従する道を選んだ。更に武田に城を奪われては、二重の屈辱よ。放ってはおけぬであろ。徳川は戻るに戻れぬのよ」
「そうか……」
「どうしやった、三成。友がおらぬは寂しいか」
「寂しくなどあるものか!」
 だいたい、別に家康は友ではない。同じ年頃だからと一緒にされることが多いだけだ。友というのはもっと、そう、秀吉さまと半兵衛さまのような関係のことを言うのだ。
 だから家康は違う。友ではない。
「ただ、家康が戻らないせいで、皆が嫌なことを言う。家康の前では言わないことをだ!」
「徳川が裏切ったのではないか、と?」
「家康が裏切るはずがない!」
 三成の手がぎゅっと袴の腿のあたりを掴んだ。
「家康は戦が嫌いだ」
「――ほう」
 大谷は三成がそれに気付いていたことに驚いた。大谷はとうに気付いていたし、かの軍師はもっと早くに気付いていただろう。だが三成が気付いているとは思わなかった。
「秀吉さまが、戦わずにすむ天下をつくる。だから家康はここに来た。それなのに裏切るはずがない」
「そうよな」
 大谷は三成の銀色の頭を撫でた。全く大谷も同意見である。
「それなのに家康を悪く言う奴はどうかしている」
「怖いのであろ」
「何が怖い?」
「徳川の裏切りが、よ。いや、裏切るやもしれぬ人の心が、やもしれぬ」
 三成がくっと眉根を中央に寄せ、首を傾げた。理解できていない顔だ。
「わからぬか、三成」
「わからん!」
 大谷は喉の奥でくつりと笑った。これでこそ三成というものだ。信じる心しかないから、人の心の闇に気付くことができない。
「腕も出しやれ、三成。傷になっていよう」
「ん」
 三成が腕を差し出した。
 そこに出来た傷にも薬を塗りながら、三成を三成のままにしておくにはどうしたら良いのか、大谷はそれを考えていた。
 三成は、このまま在るのがよい。
 しかし、これから来る未来が三成を歪めるやもしれぬ。
 美しい未来ばかりではあるまい。だが少しでも美しい未来を選び、三成の前に並べてやりたい。われが死した後も、永久に歪むことがないように。
 だがそれには、この身には力が足りぬ。
 子供の頃、三成はよく力が足りぬことを嘆いていた。力が足りぬから戦になればおいていかれ、蚊帳の外だったからである。
 その気持ちが今になって、よくわかった。
 生を望むことはせぬ。望んだところで無駄なこと。ゆるりとだが確実に、病はこの身を蝕んでいる。いずれ刀を握れなくなり、自らの足で地を踏むこともできなくなろう。
 その先にあるのは、死だ。
 われは三成を置き去りにして死ぬ。三成だけが、われの消えた世界でひとり、生きることになる。
 そのとき、覇王はいるであろうか。軍師は――おるまい。あれはおそらく、われよりも先に死ぬ。死した後、己の力の及ばぬ世界が恐ろしいから、軍師はわれを三成のそばに置いた。自ら死した後も作用し続ける、ある種の「力」として。
 われも…――新たな力が必要だ。死してなお、三成を守ろうとするのであれば。
 力が欲しい。
 といって軍師のように、人を「力」とする力は持てぬ。己の死後も人を思うとおりに操るには、そうした才が必要だ。それは誰もが手に入れられるものではなかった。
 さて、われにはいかなる力がふさわしかろ。
 軍師のように生きた力を残せぬのならば、あらかじめ三成の歩む道を平坦なものとしておかねばならぬ。
 三成の道に、小石は要らぬ。
 この足をからめとり、傷つける茨も要らぬ。
 いずれが小石の転がる道で、いずれが茨のはびこる道か、未来を読み解かねばならぬ。
 滅びゆくわが身をこの世に繋ぎとめた、永久に変わらぬ魂のために。
 しかし問題は、その種の力をいかにして手に入れるか、それがわからぬことだ。三成が欲していた力のように、成長すれば自然と手に入るものではないだろう。
 呪術か、占術か。
 月を読むか、星を読むか。
 この身にどれほどのことができるだろうか。
 大谷は布地に覆われた自分の手をじっと見つめた。
「刑部、どうした。変な顔をしているぞ」
 すっかり存在を忘れていた三成が、大谷の頬をむにっと摘んだ。別のことに気を取られていたと三成に気付かれたくなかったので、大谷も、まだ柔らかさの残る頬を摘み、引っぱった。
 柔らかな頬はよく伸び、整った顔の形を歪めた。
「おお、ぬしもおかしな顔になったわ」
「刑部! 誤魔化すな!」
 頬を摘む手を、三成が掴んだ。逃がさんというように手を握ってくる。いつものことながら、三成の体温は高い。
「何かあったのか、刑部」
 三成にまっすぐに見つめられ、大谷はさりげなく視線を反らせ、乳鉢を片付け始めた。
「刑部ッ!」
「さて、あるといえばあり、ないといえばな……ぶッ」
「わからん!」
 べちんと三成に顔を叩かれた。更に「はっきりしろ」と詰め寄られ、大谷は誤魔化す言葉を懸命に探すことになった。